問題に見える、その元となるモノの見方は
モヤモヤの原因は、‘’私“’なんだよね。
誰か、でも
何か、でもなく。
例えば、
誰かとの関係がこじれたら、
そのモヤモヤを解決したくて、
その問題から解放されたくて、
ふつう
その相手との関係をごちゃごちゃやるけど、
結局、
相手との関係に見ているのは、
私とワタシの関係。
だから、
そこを見ずして相手とごちゃごちゃやると、
ただのコントロール合戦、
マウント合戦になって
余計こじれるか、表面的に上手くいったように見えても、シコリのようにわだかまりは残る。
モヤモヤから解放されるどころか、、、
相手を責める『あなたが間違ってる!』は、
自分自身に言ってる。
『自分は間違っているんだ』って。
いつも自分を間違いだと批判してる。
その決めつけに、
自分が傷付いている。
そして相手も同じように、
『あなたが間違ってる!』と批判しながら、
自分自身を批判しているんだね。
『私は間違ってる』って。
そんな風に
私がワタシにしている決めつけと批判が見えて、
それが私を苦しくさせてたのだという理解と、
そのことをゆるせたら、
一気にモヤモヤ(邪気とも言う?)が開放される。
問題から自由になれる。
つまるところ自由って、
自分が自分にしているジャッジから
解放されることなのかも。
問題は、
自分が自分をダメだと決めつけ批判し続けていることなんだよ。
だれかが、でも、
何かが、でもなく。
そして『そんなふうに批判する自分』にコントロールさせ、支配させ続けていることなんじゃないかな。
だれかから、でも、
何かから、でもなく。
ちなみに相手がどうなるかは相手の問題なので、そこに介入はできないよなぁ。
自分自身を責め続ければ
誰かを批判し続け遠ざけ続けるだろうし、
自分自身をゆるせたら、
やぁやぁこんにちは!と、なるのかも、、、
しれないな~
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