この形の愛は卒業なのです
いつもいろいろなことが起きていて何もないことはめったに無い日々だけど、ここのところまたいろいろなことが立て続けに起き、なんだか目まぐるしい。
たくさんの出来事やたくさんの人たちと関わることで、
人それぞれ特有の見方(視座・視点)を持っているのがありありと感じられる。
一人でいると自分の見方・視座も、わからなくても関わりの中であぶり出されるな。
その見方・視座が『正しさ』に支えられていると、
その裏には必ず『間違い』と『間違うことへの恐れ』があって、
そして人はたいていそのことに無自覚だから、
その恐れは当然外の出来事や自分以外の誰かに投影されて、
何かや誰かを批判・批難したり(反対に同意したり)。。。
ここのところ、いろんな人の視点にまみれ自分の波打つ感情にまみれながら、私は気付いたのだ。
私はなぜか、人からの投影を積極的に引き受けてきたような気がする。
その人の気にいるような『間違った人』になったり、
その人の気に入るような『正しい人』であろうとしていた気が。。。
そんなことをしているうちに本当の自分自身を忘れてしまうわけなんだけど(;^ω^)
でもこれ、私にとっては❝愛❞だったのよねーーー
その原型となるのは、母への愛なのだけど。
愛という名の、依存でありコントロールだ。
この歪んだ?愛の定義も、結局は自分自身を苦しめていたわけなのだ。
双方を幸せにはしないよな。
気付けれは変われる!!
わたしはこの愛の形を卒業します!
私は私への愛を、私を生きるのだーーー!
残念なことに、何かあるいは誰かをどう判断するかは、多くの場合、合理的というよりは、自分は正義であるという本能的感覚に関係します。・・・正しいというのは他人が間違っているという意味だという場合、自分が一つの視点の中に閉じ込められてしまいます。
アバターの道/ハリー・パルマー
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