自分を幸せにするという決意~その2~
二つ前に「自分を幸せにする決意」を書いたけど、あの記事を書いた時の自分の意識状態から、今はちょっと抜け出せていて、今自分で読み返してみると、、、
暗いねー(;^ω^)
記事を書きなおそうかと思ったくらいだけど、あれも自分やし、そのままにておくことにしよ。
読み比べると、とても興味深いし。
どちらとも書いてるのは『私』だけど、意識の在りようで、見えてくる世界は全く違う。
意識がこの現実世界を創る土台なんだから、この二つの意識の状態の違いが経験する現実も、もちろん違うってことになるな。
誰かの助け・貢献になるという思い(価値観)は消さず、
『だから自分のサイズを相手に合わせます』ってやり方に対する執着を手放す。
それこそが相手のためになるってことだ、という過去の学び=決めつけから抜け出して、
自分も救われながら、相手も救われる、そういう方向にいくこと、
相手の目線に降りていかずとも、お互いがお互いのサイズのままでも幸せになるという世界を実現するって方向にいくことを、
改めて自分にはっきりさせている。
↑ ↑ ↑
文章の締めくくりはこんなで。
この答えとも言えるものが閃きとともにやってきたーーーー!
それは、、、
そもそも救うべき人(私が救ってあげる、的な意味での)なんているのか?
‘’いる‘’とすれば、
そう‘’見させている‘’想念を
自分または双方から消し去ることしかできない。
もしかすると、それだけが‘’救い‘’というものへの唯一の効果的な手立てで
それができた時に、現実において具体的な解決の道が現れてくる(与えられる)のかも。
ということ。
私の中にある『不平等(という考え・想念)への執着』。
不平等さを信じこんでるんよね。
才能とか、運とか、縁とか、お金とか、、、そしてそんなものが、自分の価値を決めているとも。
その中に、‘’人を救える自分の能力‘’っていうのもあったと思う。
そんなものの行き着く先は、
『自分には価値がない』になるのは容易に想像がつく(;^ω^)
そんなの、ただの違いでしかない。
才能とか、運とか、縁とか、お金とか、人を救える能力とか、
そんなのあっても無くても、真の意味での自分の価値は全く変わらない。
上とか下とか、強いとか弱いとかから生まれる力の戦いからも抜け出せる。
結局、
自分が、救われるべきものを創り出すし、
救いなんて必要のない世界も創り出せる。
発生源は全部自分だ。
だから、
『自分も救われながら、相手も救われる』というのは、
真実ではない『考え・想念』から抜け出して、
真実の姿に目覚めることなんだろうな。
結局それが相手を救うことになるんだろうな。
想念から解放してあげることが。
面白いなーと思うのは、
最初に書いた『自分を幸せにする決意』も、
『自分をしあわせにする決意~その2~』も、
どちらも私の中から出てきた感情や感覚だけど、
同じ人間から導き出されるものでも、こんなにも違う。
意識のグデーションというか、
自分の意識の在りどころって、大事。
この後の『現実を生きる』というステージにめちゃめちゃ関わることになるから。
想念から解放されて向かう先の未来は、
誰かの正解をトレースするようなものでなくて、
自分の経験したい世界を創造する、に向かうんだろうな。
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